戦場の狂気

戦争を肯定的に捉える見方があるが、どんな戦争にも正当性はない。「攻められていて祖国防衛のために立ち上がらないのは負け犬というより人間失格」とまで罵られそうであるが、「祖国防衛」という名の数々の侵略戦争が歴史上存在してきた以上、額面通りに受け入れる訳にはいかない。

「偽旗作戦」という名の偽装戦争に安易に騙されてしまう実態は数知れない。日本軍の盧溝橋事件然り、ウクライナ東部地域のロシア系住民の迫害という数多くのでっち上げ事件などはその証左である。その真偽を確かめる手段も時間もないまま正義という名の狂気に踊らされてしまうのが戦争の実態である。満州国をでっち上げた関東軍が欧米列強の支配から大東亜共栄圏を守る救世主だったのか、現在マリウポリで戦闘を続けるウクライナのアゾフ大隊がロシアのいう極右のネオナチなのか、ウクライナ住民にとっての救世主なのか、真偽は分からない。
そもそも様々な問題の解決手段を安易に武力や戦争に求めてしまうから問題は解決するどころか、泥沼化してしまうのだ。戦争は容易に狂気を生む。
戦前のドイツでは、ユダヤ人のガス室送りを殺害とは言わずに“最終的解決”と言い換え、ナチス側の心理的なトラウマを軽減していた。戦場では、言葉の言い換えが多数行われ、兵士たちは戦場で敵を「殺す」と言わず「倒す」「ばらす」「片付ける」などと言っていた。蔑称は敵を一人の人間として意識しないようにするための心理的防衛策である。

ホモ・サピエンスには他の動物に見られない強固な協力性という性質があり、場合によっては自己を犠牲にしても他者を助けるが、それは自分の仲間であると認識した範囲(内集団)までだ。そして内集団に対して協力性が発揮されると、合わせ鏡のように外に対しては排他的、攻撃的になる。外集団はあたかも同じ人間ではないかのように位置づけられ、ダニや菌よばわりされる(名古屋大学大学院情報学研究科教授・大平英樹氏)今回ロシア軍がブチャの惨殺遺体の多くを放置したことは、ウクライナ側の「心を折る」ため意図的になされた疑いがある。虐殺という行為の後始末をウクライナ人に押しつけ、自分たちのストレスを軽減する一方、精神的ダメージを与える悪魔の仕業に他ならない。