改めて実感する憲法9条の存在価値
日本はかつて東南アジアに対する侵略国家であった。だが第二次世界大戦でこっぴどく負けたので、戦勝国からは二度と軍事力を他国に行使せぬよう憲法9条を押し付けられたのである。国民も武力行使に対する憔悴感や忌避感から平和を愛する諸国民の一員としての立ち位置を受け入れ、憲法9条を大多数が信奉するようになった。
しかし時の変遷とともに次第に「侵略国家」としての自覚が希薄となって、今ではロシアに侵略されたウクライナ国民の心情に寄り添う被害者意識で満ち満ちている。確かに我が国は四方をロシアや中国、北朝鮮などの暴発気味の独裁国家に囲まれているので、ウクライナ国民の立ち位置に重なる部分は少なくない。今更ながら周辺国を侵略するメリットも能力もないのでかつての敗戦時に懺悔した加害者意識は微塵もなくなってはいる。
しかし今や核超大国になった中国やロシアでさえ、以前は旧日本軍の圧倒的な軍事力に圧倒されていたので、彼らの保持する莫大な武力も(今の仮想敵国はアメリカであるが)防衛的なものに過ぎないと言い張る。彼らのいう防衛力とは、相手国の軍事力を上回る攻撃力で地球上から相手国を殲滅させてしまうほどの潜在軍事力を指す。いわば侵略を思いとどまらせるためには逆に過剰防衛といわれるくらいの軍事力を持たなければならないという戦略である。恐怖の均衡だ。
いじめっ子は意外にもいじめられていた経験があるという。国家間でも同様で、侵略を受けていた国がいつのまにか侵略する側に転嫁することは19世紀初めのロシアやドイツにも当てはまる。だからこそ、暴発気味のロシアや中国、北朝鮮ににこそ軍事的侵略を規制する日本の憲法9条のようなストッパーが必要ではないか。資源輸入国の日本が唯一誇れる輸出品が憲法9条ではなかろうか。日本で約70年間武力行使しなかったという実証済みなのだから。