戦争で国家に絡めとられる個人

戦争が起こるということは、個人に対する国家の領有権が極限まで拡張するということに他ならない。国家はそもそも一種の信仰であり共同幻想に過ぎないのに、たまたまそこに居住する国民は突然戦争が起こってしまと身体的にも精神的にも領有され、管理され、利用され、弾圧の対象となる。侵略する側であろうと侵略される側であろうと国民は同じ立ち位置だ。異議を唱えれば「非国民」「売国奴」「外国の手先」と罵られてしまう。今のロシア然り、ウクライナ然り、戦前の日本然りである。「一億火の玉」となって鬼畜米軍に体当たりしていたかつての日本人は独立した個人としては存在していなかったのだろう。

ロシアや中国、北朝鮮の暴力的脅しが極限に達したら「日本国家」の一員としての帰属性をもったまま国民は至極当然に戦闘を始めるのだろうか。たとえ自ら自覚して戦闘行為を選んだとしても国家は微力な個人に対して一方的な領有が始まる。だから戦闘中の個々人が和解や停戦の時期に達したと思って武器を一旦置こうにも国家の意思と反することは出来ない。国家の意思に従い続けなければ「非国民」という烙印を押されてしまいかねない。最初は身近な家族や郷土を守るために良かれと思って立ち上がったつもりがいつの間にか国家の戦闘装置に組み込まれてしまう。愛国心という名の下に。戦争の悲劇はいつの時代でも同じである。

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戦争の代償