攻められてからどうする?

俗に「他国から攻められたらどうする?」という強迫観念を抱かせる定番の愚問に、俗人が怖がらないよう「用意周到攻められないように準備する」と誘導する十八番がある。自衛隊の創設時期や年末の防衛予算確保の折、憲法改正日程の節目節目で登場するオハコでもあるが、攻められないようにと各国が軍拡にひた走るチキンレースの結末に誰が責任をとってくれるのだろうか。
繰り返し「攻められたらどうする?」という刷り込みに血筋を上げる位なら同時に「攻められてからどうする?」という問いと覚悟も用意すべきであろう。攻められる可能性ばかり言及するのでなく、不運にも攻められてしまったらどうするのかというシミュレーションもしておくべきではないか。一旦攻められればその後攻められてしまう可能性もゼロではないのだから。
他国に侵略され、国内に他国の傀儡政権が出来た時、被占領国民はどう動くのかも考えておくべきだろう。攻められた後どういう態度に出るのか、占領軍に従うのか、非暴力で不服従なのか、言論によって隙あれば抵抗するのか、テロリスト呼ばわりされても武器を持って抵抗するのか、それを個人で行うのか、人を集めて組織的な抵抗運動に繋げていくのか、自問自答すべき大きな課題である。
第二次世界大戦中、日本軍規は軍人が敵国の捕虜になることを想定しておらず、万が一捉えられたら自死するよう仕向けられていた。シミュレーションがないから仮に捕虜となった途端に右往左往してしまうのである。あってはならないこととあり得ないことを同列に論ずるべきではなく、あってはならないことでもあり得ると考え、準備を怠るべきでなかったのだ。だから当時捕虜となった日本軍人は米軍の尋問にペラペラと自軍の規模や作戦計画をいとも簡単に打ち明けてしまうケースが多かった。だから今日、「攻められてからどうする」という自問自答は無意味ではあるまい。
さらに敗戦を想定していなかったからなのか、我が国ではかつてアメリカ軍を鬼畜米英と罵っていた陸海空の士官や政治家、巷で大きな態度の軍国主義者ほど敗戦後には掌を返したように進駐軍に取り入り、闇市に米軍物資を横流しし、当時の貧しい国民の犠牲の下に私腹を肥やしていた。歴史は繰り返すという。今、盛んにロシアや中国の脅威を喧伝している連中ほど侵略された途端に自国民を見捨てて力の強い侵略側にすり寄ってしまうのではないか。
一旦は占領されても侵略側に屈服せずに抵抗し続け、彼らに占領のメリットよりもデメリットの方が上回ることを思い知らせることによって侵略行為を諦めさせ、日本から出ていく、或いは追い出すことが出来るかも知れないというのに。