終戦記念日のもつ偽善性

毎年8月15日になるとあの戦争の戦禍を憂い、「二度と過ちは繰り返しません。再び戦火が日本に及ばないことを祈ります」となるが、これでは何の教訓にもならない。こんな偽善的セレモニーを続けている限り、また戦争の火蓋が切って落とされる日が来るのも時間の問題だ。何故なら何の反省もしていないに等しいし、無謀な戦争を仕掛け、4年間も続け、さっさと終わらせなかった責任をうやむやにしているからだ。

こんな有り様だからウクライナ戦争のような事態になると、「日本も手をこまねいていないで戦力を増やして来るべき戦争に備えよ」となる。これでいいのだろうか?先の無謀な戦争の悲劇の教訓が何も生きていないことに気付いてしまう。
まず重要なのは軍事にシビリアンコントロールが効くかということに尽きる。先の大戦での教訓は、無謀な戦争を仕掛けた日本軍は敗退を認めず、国民に事実を隠し、軍人のみならず一般国民の命を犠牲にした負け戦をだらだらと続け、最後は敗戦による領土の割譲と米軍の占領という国民にとって最悪の結果をもたらしてしまったことである。だから日本国家及び日本国民はシビリアンならぬミリタリアンコントロールされた挙句に悲惨な結末を迎えてしまったという教訓があるはずだ。

幾多の戦場において、日本軍は戦局が怪しくなると現地の日本人を見捨て安全な場所に一目散に逃げてしまったという。助けないどころか置き去りにしてしまうのである。
また逃げ切れないと分かると、沖縄やインパールでは銃口を自国民に向け、自決を迫っていたという。特攻も含め、命を粗末にする日本軍に比べ敵軍の方が余程命を大事にしてくれたと言われた。
そんな日本軍であるが、捕虜になると途端に自軍の位置や兵力を敵にペラペラと話してしまっていた。捕虜になることを軍規で想定してなかったためだとか。そして敗戦後、日本の将校や軍属たちは一転、占領軍に媚びを売って気に入られようとし利権を手に入れた。大物右翼による公益の私物化の始まりだ。

我々日本の軍隊の過去の歴史はそんなもんなのである。それを真摯に反省もせず、外交努力もせず、ただ国際情勢が危ないからといってやみくもに軍備増強に走ることが果たして国民の命を守り戦火を避けることに繋がることになるのだろうか?
中国大陸への侵略を自衛戦争と偽り、その後の歴戦の失敗を転進と誤魔化し、負けが混んでくると自国民を守るどころか銃口を国民に向けてきた日本の軍隊の事実と責任を明らかにし、反省しない限り、終戦記念日のもつ意義は永遠にないし、シビリアンアンコントロールになってしまう危惧しか感じない。

憲法9条が存在する背景は過去の日本が国民の制御の効かない侵略国家であったからである。にわか軍国主義者はやたらと「日本が攻められたら憲法9条が足かせになってしまう」とのたまうが、過去日本は攻める側の国であったからこそ憲法9条が足かせとして機能してきたのである。認識を誤ってはいけない。日本が侵略国にならないためにも同9条の意義はあるといえよう。

万が一日本が攻められたら憲法9条があろうがなかろうが今のウクライナと同様、自衛のために戦えばいいんじゃない?と言っておく。